衣錦尚絅(いきんしょうけい): 四書五経の「中庸」に出てくる言葉の意味について調べてみた

四書五経の「中庸」に出てくる衣錦尚絅(いきんしょうけい)という言葉の意味について調べてみました。

ネットでは

四字熟語辞典オンラインによると

才能や徳を見せ付けないように隠すこと。

四字熟語図書館によると

才能などを表に出さないことのたとえ。奇麗な錦の上に薄い一重ものを着ることから

 

 

岩波文庫の金谷治訳注「大学・中庸」によると

第十九章(240ページ)に載っています。

20170407 (3)

詩曰、衣錦尚絅、惡其文之著也、

故君子之道、闇然而日章、小人之道、的然而日亡、

君子之道、淡而不厭、簡而文、温而理、

知遠之近、知風之自、知微之顕、可与入徳矣

 

読み下し文は、

詩に曰く、錦を衣(き)て絅(けい)を尚(くわ)うと。其の文の著(あら)わるるを惡(にく)むなり。

故に君子の道は、闇然として而も日に章かに、小人の道は、的然として而も日に々亡ぶ。

君子の道は、淡くして而も厭われず、簡にして文あり、温にして理あり。

遠きの近きことを知り、風の自(よ)ることを知り、微の顕なることを知れば、与て徳に入るべし。

とあります。

現代語訳としては、

「詩経」に「錦の衣を着てその上から薄ものをかける」とあるのは、錦のもようがきらびやかに外に出るのをきらったものである。(錦は薄ものをすかしてこそ美しい。)

そこで、君子のふみ行う道は人目をひかないで、それでいて日に日に(その真価が)あらわれてくるものだが、つまらない小人の道ははっきりして人目をひきながら、それでいて日に日に消えうせてしまう。

君子のふみ行う道は、あっさりと淡泊でありながらいつまでも人をひきつけ、簡素でありながら文采(あやかざり)があり、おだやかでありながら条理(すじみち)がたっている。

遠いところのことも近くから起こることをわきまえ、一般の風俗にもその根本の原因があるとわきまえ、微かなことほどかえって明らかになると知って、何事も身近な地味なことから始めれば、進んで徳の世界に入ることができるのだ。

とあります。

この本が発行されたのは1998年。割と現在に近いです。

100年前の人が「衣錦尚絅」という言葉にどんな意味を感じていたのか、もう少し古い別の本でも調べてみました。

簡野道明著 「中庸解義」によると

少し古といっても昭和五年発行の本ですが・・・(手元にあるのは昭和四十一年発行の二十三版)。この本には「衣錦尚絅」という言葉は三十三章(300ページ)に出てきます。

20170407 (2)

 

詩曰衣錦尚絅惡其文之著也。

故君子之道、闇然而日章、小人之道的然而日亡。

君子之道、淡而不厭、簡而文、温而理。

知遠之近知風之自、知微之顕可興入徳矣

 

 

読み下し文は、

詩に曰く、錦を衣(き)て絅(けい)を尚(くわ)うと。其の文の著(あら)わるるを惡(にく)めばなり。

故に君子の道は、闇然たれども而も日に章かに、小人の道は、的然たれども而も日に亡ぶ。

君子の道は、淡なれどおも而も厭われず、簡なれども而も文、温なれども而も理なり。

遠きの近きを知り、風の自(よ)る知り、風の自るを知り、微の顕なるを知らば、興(とも)に徳に入るべし。

とあります。

 

単語の意味としては

「尚」は、加えること。

「絅」は単衣のこと。

「文」は錦の模様のこと。

 

直解としては

子思が曰ふに、詩に曰く、錦の衣(きもの)を着ては、其の上に麻の粗布の打掛を加えへると。

これは錦の衣の文采模様があまりに「ハッキリ」と外に著(あら)はれるのを惡(にく)むからである。

古人の心を用いることの奥ゆかしくして文飾をこととしないことはこの如くである。

それ故に君子の学問の道は例えば絅を加えて衣るが如くに専ら己の為にして人に知られることを求めない。それであるから、表面から見れば、闇然と暗くつつんでいるようであるけれども、例えば錦を衣るが如くに美しい徳が内に充実しているので、自ずから日日に其の章明となるを見る。

小人はこれに反して、専ら務めて人の為にし、ただ人に知られたいことを求める故に、始めは的然と明らかに外に表れるが根底がないので日日に其の箔がはげて消え亡せるようになる。

君子の道は庸徳を行い庸言を謹むので、何等の悦ぶべきもののなく至って淡薄であるが恰も香の物に茶漬けのように其の中に言うに言われぬ味があっていつまでも厭かれない。

簡略で手軽ではあるが却って其の言語も動作も何處となく上品で其の文采の見るべきものがあり、濃厚で「ボンヤリ」としているようであるが而も其の條理井然と正しく乱れないものがある。

而して教化の遠き彼方に見われるものは近き此の方の修身齊家に本づくことを知り、外、流風の傳わるのは、内其の身の修養に由ることを知り、微なるより顕なるはなく、中に誠あれば其の徳が必ず外に形はれることを知ってその獨を慎む者は興に徳に入って、漸く聖人の域にも進むことが出来る。

知遠之近 以下は君子となるの工夫を説いたのである。

とあります。

 

感想、まとめ

いろいろ調べたまとめ。「衣錦尚絅」とは、君子の在り方を説いた言葉。

「君子」とは今で言えば、指導する人、まとめて行く人、リーダー、上に立つ人といったところでしょう。君子には「徳がある」ことが前提。そして徳があってもそれをひけらかさない、見せびらかさない、という態度が大切、というふうに思いました。そういう態度で周りの人々を感化して相手が自分から動いていく・・・。

自分のお店のホームページでは、ことさら利点をアピールしようとしてしまいがち。アピールしたくなる、というのはそもそも徳の積み方が不十分。「伝わっていない!」と焦るのも徳の積み方が不十分なんでしょう。自然に伝わるように態度・行いを改めていこうと思いました。