6年ぶりに母校に行ってきました

(書きかけて止まっていた記事を気を取り直して投稿しております・・・)

 

もう三ヶ月前になってしまいましたが・・・

3月2日、6年ぶりに母校の浅野学園に行ってきました。

名物先生であった石橋先生のお別れ会に参加するためです。

 

弔辞を読まれた方の中に岩崎先生がおられました(岩崎先生は私が中三の時の担任の先生でした)。

岩崎先生は十七歳の時に石橋先生に出会い、「この人を師匠にする」と決めたそうです。

そして大学卒業後、石橋先生と同じ国語科の先生として赴任されました。で、浅野に来て何年目かの時に、私たちの代を受け持ってくださいました。

石橋先生の影響を受けて工夫したものなのか、授業は「詩を時間かけてゆっくり読む・・・」という独特なものでした。

いっぱい教わったはずですが、35年たった今も覚えているのは、牛(高村光太郎)、二十億光年の孤独、ネロ(谷川俊太郎)、I was born (吉野弘) くらいです・・・

 

石橋先生はラグビー部の顧問をやっておられましたが、岩崎先生もラグビー部の顧問もやっておられて、とにかく熱い。

当時シラケ世代(死語?)だった私には、その熱さがなんとも鬱陶しく思ったものです。

「なに熱くなってんの? 授業もバシ(石橋先生のこと)のマネだし」とか心の中で大声で叫んでました ^^;

(声に出して言えなかったところが私の軟弱なところ (>_<))

 

弔辞を聞いていて、

師匠と呼びたい人の所に躊躇いなく飛び込んで行った素直さ、当時はそこに嫉妬していたのだと思いました。

 

 

式典が終わった後は、グランドや銅像山を見学させていただきました。

グランド・大階段

大階段。

当時はこんなピシッとした階段ではなかったです。

 

当時は土のグランドでしたが、今は人工芝が貼られているようです。

 

ベンチとかサッカーゴールが置いてあるあたり、イチョウ並木になっていたような気がします。

 

当時は雑木林の崖でしたが。

崖の斜面を利用した観客席になってました。

 

立派な校舎ですね \(◎o◎)/!

 

当時は柵はなく、いきなり雑木林の崖でした。 ^^;

当時はこの校舎はなく、道幅はもっと幅が広くて、通学路だったり、運動部のランニングのコースになってました。

 

裏門へ向かう途中の、外からグランドを眺めた写真。

整備されてますねぇ (^-^)

 

銅像山

浅野總一郎翁の銅像が立っている銅像山に向かう坂道。

中一から中二の中頃まで軟式テニス部に所属してました。

トレーニングの一環として、この坂をダッシュさせられてました (T_T)

右側に写っている人のあたりからスタートして、一番手前に見える車のあたりまで。

 

浅野總一郎翁像。

今も変わらず、京浜工業地帯を見守ってくれています。

 

總一郎像の下にある鎖。

鎖の下に入ってベンチプレスのように持ち上げている人もいましたが、非力な私は持ち上げることができませんでした ^^;

 

試しに持ち上げようとしましたが・・・

腰にピキッと来そうだったので、慌てて止めました ^^;

当時はもう少し黒光りしてた気がしますが、三十年の歳月が流れてますからね・・・

 

銅像山から南の方向を眺めたところ。

赤と白の煙突は昔と変わりなく・・・

当時はキリンビールの工場が一目でわかりました。

高い建物が増えたせいか、今はよーく見ないと分かりません。

 

みなとみらい方面を眺めたところ。

当時は「みなとみらい」という言葉もなく。

 

プールのあったところ

銅像山からテニスコートを見下ろしたところ。

昔は、手前から二つ目のテニスコートあたりにプールがありました。

 

拡大写真 (^-^)

今はテニスコートの奥の建物の中にプールがあるとのこと。

 

 

遅刻坂

正門を入るとすぐに坂になります。

別名「遅刻坂」。

新子安の駅から正門まで辿り着いても、すぐに校舎・教室に入れるわけではありません。

この坂を登りきらないと辿り着けないのです。

 

この坂で力尽きてホームルームの時間に間に合わない人が多かったせいなのか、「遅刻坂」と呼ばれてました。

 

私がいた頃はアスファルトで覆われていて、もっと路面にうねりがあって傾斜にばらつきがありました。

軟式テニス部にいた頃、この坂の斜面を利用して筋トレさせられました (>_<)

一番嫌だったのが、「足上げ」と呼ばれる筋トレ。

頭を坂の上側に、足を斜面下側に向けます。で、足を路面から浮かせる、というトレーニング。

腹筋をトレーニングする目的だったのか? 今やったら背中を痛めそう・・・

 

書いていて思い出してきたのですが、

頭を坂の下の方に向けて腕立て伏せをやったり。二人一組になって手押し車したり。

 

「あひる」と呼ばれる足を鍛えるトレーニングもありました。

どんなトレーニングかというと。

うさぎ跳びする時のようにしゃがみます。ピョンピョン跳ねず、しゃがんだ姿勢のままずりずり歩く。しかも坂の上の方に向かって (-_-;)

 

おもしろくない、つまらない、きついということで軟式テニス部は辞めてしまいました。

スポーツするには基礎体力が必要なのは今となっては分かりますが、当時はよくわかってませんでした。

 

樹木草花

当時も咲いていたのでしょうが、目もくれてませんでしたね ^^;

春の桜と、秋のつぶれたギンナンのにおいが記憶に残ってる程度。あと冬のプールに発生したコケの緑とそのにおい ^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自撮り

 

裏門

鶴見の馬場町から徒歩や自転車通学してましたので、正門は通らず、裏門から入ってました。

 

大階段あたりから裏門方面を眺めたところ。

裏門までの間は、今はハンドボール場?と駐車場になっていますが、当時は校舎が二棟たってました。

 

公園台地

中学生の頃の昼休み、お弁当を食べた後は、コンクリートの壁を乗り越えて、子安台公園に入って野球をしてました。

今はコンクリートの壁ではなくなってました。

 

この柵は当時のままっぽいですね。

 

公園台地の下をくりぬいて”きたせん(首都高速神奈川7号横浜北線)” が走っています。

高くそびえているのは換気塔でしょうか(調べてみたらこの建物は”子安台換気所”と呼ぶことが判明)。

 

 

 

京浜東北線で鶴見から横浜方面に向かう時、いつも下を通るのでどんなふうになっているのか気になってました。

 

きたせんNOWというサイトの「子安台換気所付近」のところを見ると、公園台地が変化していくさまが見れました。

そこに出てくる写真の中には浅野の校舎が写っているものもありましたよ。

 

公園台地から生麦中学校方面を眺めたところ。

微妙に当時の面影があるようなないような。

下の広場は当時ままなのか、新しく造り直したのか、よく分かりません^^;

 

 

その日の夜、俺は浅野で師匠と呼べる人に巡り合えなかったなぁ、と思っておりましたが・・・

そんなことはなかったか、と思いいたりました(続く?)

 

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6年前に浅野に行った時の記事はこちら→ プールの”見納め会”に参加してきました